東京大学のUTCPから『UTCP Booklet 20号 精神分析と人文学』という冊子が送られてきた。昨年、パトリック・ギュイヨマール氏が来日しUTCPで講演した際、原和之氏に呼んでいただき、その上このような刊行物まで送っていただいて大変ありがたく思っている。これと一緒に送られてきた原和之氏のフランス語論文集と併せて興味深く読ませていただいた。

 当日、ギュイヨマール氏の発表のあったあと、二つ質問が出た。小林康夫氏と私のものであるが、双方とも同じ問題点についてであったのは偶然ではないだろう。ラカンのセミネール第十一巻の最後のフレーズの解釈についての問いで、これはラカニアンの間でもいくつかの解釈があり問題になる部分である。

 原文を挙げよう。

 L’amour, dont il est apparu aux yeux de certains que nous avons procédé en au ravalement, ne peut se poser dans cet au-delà où, d’abord, il renonce à son objet. C’est là aussi ce qui nous permet de comprendre que tout abri où puisse s’instituer une relation vivable, tempérée, d’un sexe à l’autre nécessite l’intervention — c’est l’enseigne­ment de la psychanalyse — de ce médium qui est la métaphore paternelle.

 Le désir de l’analyste n’est pas un désir pur. C’est un désir d’obtenir la différence absolue, celle qui vient quand, confronté au signifiant pri­mordial, le sujet vient pour la première fois en position de s’y assujettir. Là seulement peut surgir la signification d’un amour sans limite, parce qu’il est hors des limites de la loi, où seulement il peut vivre.


 この部分は次のように訳されている。

 ある人々からすれば、われわれが愛を貶めているように見えたかもしれませんが、愛が措定されるのは、何よりも愛がその対象をあきらめる彼岸においてだけなのです。これによって次のことも理解できます。つまり一方の性の他方の性に対する、生きることのできる穏やかな関係が打ち立てられうるような避難所には、父の隠喩という媒介の介入が必要である、ということです。

分析家の欲望は純粋な欲望ではありません。分析家の欲望は絶対的な差違を得ようとする欲望です。絶対的な差違というのは、主体が原初的シニフィアンに直面して、それに従属する位置にはじめてやって来るとき、そのときに介入する差違です。ここにおいてのみ、限界のない愛の意味作用が浮かび上がります。なぜならその愛は法の諸限界の外にあり、愛はそのような外部においてのみ生きることができるからです。


 読者の関心の焦点は最後の部分に集中するだろう。このような愛は可能なのであろうか、そもそもそれはいったいどのようなものであろうかといった疑問である。小林康夫氏の問いはそれに関したものであった。

 ギュイヨマール氏はこう書いている。

 そこにおいてのみ愛が生きることができる、法の限界の外部にある、この愛とは一体何だろうか。私の提案は、ラカンが語るこの愛のうちに、断念としての愛(殺害や供犠にまで至る純粋欲望から区別された非ナルシシズム的な愛)、このテクストにおいて(父性隠喩をめぐって)人間の共同体と名付けられているものへの呼びかけを見るということだ。それは破門〔共同体から排除(ex-communiquer?)〕することのない共同体である。それは分析家の共同体でもある。


 このギュイヨマール氏の返答はあまり私には納得できない、なにかロマンチックな理想的な愛を描いているように見えるからだ。

 私の質問は「そこに何かロマンチシズムのようなものがありはしないか。一体、限界のない愛とは何だろうか。精神病的な愛とどのように違うのだろうか」というものであった。以前コレット・ソレールが限界のない愛とは精神病的な愛だというのを聞いたことがあり、この点を明確にしたかったのだ。

 問題はラカンがこの文章の最初の部分に、生きることができるような穏やかな関係には父性隠喩が必要であると言っているところにある。父性隠喩はやはり一つの法であるから、法の限界の外にある愛というものは穏やかに生きることは困難な愛のはずである。そこに何か熱情的なロマンチックな愛を見るのは不思議ではない。


 そこでこの文章を少し違った風に読めないのかと考えてみた。

 問題の最後のフレーズ「Là seulement peut surgir la signification d’un amour sans limite, parce qu’il est hors des limites de la loi, où seulement il peut vivre.」には関係副詞「où」がある。ラカンの文章では関係詞などが何と繋がっているかを判断することが困難な場合が多い。この文章の「où」 も一見するとこの訳者のように法の外部と取るのが自然である。ギュイヨマール氏もそう取っている。

 しかしそれでは上の問題が出てき、文章の整合性が疑わしくなる。そこでこの「où」が何か他の先行詞を指すことができるかを探してみよう。フレーズの最初に「Là」という副詞がある。少し遠いが、これを「où」の先行詞と取ってみることもできよう。
「Là …, où ….」と受けるのは自然な表現である。そうすると訳はこうなる。「ここにおいてのみ、限界のない愛の意味作用が浮かび上がります。なぜならその愛は法の諸限界の外にあり、愛は限界のない意味作用が浮かび上がるその場所でのみ生きることができるからです」。 

 このように解釈すると、もはやラカンが法の限界の外の愛を説いていると考える必要は無くなる。限界の無い愛の意味作用が浮かび上がるところとは何を意味するのであろうか。それを理解するには同じ段落にあるが引用されていない最初のフレーズを参照しなければならない。

 Position limite, qui nous permet de saisir que l’homme ne peut esquisser sa situation dans un champ qui serait de connaissance retrouvée, qu’à auparavant rem­pli la limite, où comme désir, il se trouve enchaîné.


日本語訳は次の通り。

 これは極限の位置であり、これによって我われは、次のことを把握することができます。人間は、あらかじめ自分が欲望として繋がれている限界をあらかじめ極めた上で初めて、再発見された知識に属するような領域における自らの状況を素描できるのです。


 この部分には、「L’amour, dont il est apparu aux yeux de certains que nous avons procédé en au ravalement, ne peut se poser que dans cet au-delà où, d’abord, il renonce à son objet」.というフレーズが同じ段落内に続く。ここにあるd’abordという言葉は「何よりも」と訳されている。しかしその意味は前の段落の「auparavantあらかじめ」とおなじであり「まず最初に」と訳すべきである。そうすると人間は、一端、対象をあきらめた後に愛が据えられるという意味がはっきりとする。

 このすぐ後の部分では、生きることのできる、父性隠喩による愛が問題になっている。フレーズの冒頭にある、「極限の位置」とはカント的欲望、超自我的純粋欲望の命令の場所を指している。つまり人間は純粋欲望の極限というものを経験して初めて愛を生きることができるのだと言っているわけである。

 最後の段落では、主体は原初的シニフィアンに直面して初めて無限の愛の意味作用、つまり、カント的な欲望の意味作用を知り、その後に初めて生きることができる、というようなことが言われている。このように読んでいくと、結局、最後の段落は最初の段落と分析家の欲望とを絡み合わせて繰り返しているのだということがあきらかになる。

セミネール十一巻の最後の部分はこのように読むと整合性が保たれるであろう。

(旧サイトからの転載)