28日のフロイト思想研究会の最後に設けられたシンポジウムの発表では四人の先生方がそろって、21世紀には精神分析は廃れる、とか、フロイトは思想としてのみ残るだろう、などと発言していた。四人の方のうちで三人は精神分析実践とは関係のない方であるからまあ仕方あるまいとしても、自分は精神分析をやっているという発言者までがそう言うのには全く失望してしまった。ちなみに、シンポジウムのテーマは「実践されるフロイト思想」であったが、これではまるで「埋葬されるフロイト思想」ではないだろうか。
 そしてまた彼らの口からは、現代においてフロイトの継承者と見なされるべきラカンの名前がほぼ抑圧されたように出てこなかったことももうひとつの驚きであった。
 そこで私はシンポジウムの最後に「精神分析理論というのは生きているものであって、時代によって変わっていくものだ。現代の精神分析においてはラカンの名を無視することはできず、フロイトの理論といえどもラカンの理論展開をふまえて遡及的に理解することが必要だ。皆さんの発表もこの点を考慮してなされば遙かに興味深い物となったことでしょう」というようなことを会場の側から、ちょときつかったが、発言した。
 私自身にもこれから精神分析が発展していくか衰退していくかはわからない。だがそれを言う前に精神分析とは本質的に何であるかをよく考えてほしい。
 フロイトが「精神分析はペスト」だとか自分は「冥界を動かす」など言ったのは意味のないことではない。彼はすべての者が忌み嫌い、避けて通ろうとする世界の扉を開こうとしたのだ。この世界では市民権を獲得することのできない次元のものにひとつの場所を与えようとしたのだ。そういうものがこの世でディスクールとして成立すること自体、ひとつの奇跡である。フロイトはそれを行った。だが、この扉は一度開いたとしてもそのままではやがて閉じてしまう運命にある。フロイト以後それは閉じられる方向に向かった。そこにラカンがやってきて流れを変えようとした。そしてラカンが生きているうちは確かに流れは変わった。この意味でラカンはフロイトと同じく奇跡を起こした人間なのだ。
 だから、現代においてフロイトを語るにはラカンとともに語る必要があるのだと言うのだ。
 問題は精神分析が発展するか廃れるかではない。フロイトの後を引き継いでいこうとする人間がいるかいないかなのだ。これは理論ではなく実践の問題である。単に精神分析は凋落するということを繰り返すだけでは凋落に荷担するだけであり、それは世界の一般的で自発的な傾向に従っているだけなのだ。

(旧サイトからの転載)