日本精神分析学会の学会誌『精神分析研究』の最新号に 『クライン-ラカン ダイアローグ』についての書評が掲載されている。

 この『クライン-ラカン ダイアローグ』という本は、クライン派とラカン派という互いに親近性のある学派どうしの対話が成立すると実りある結果が期待できるはずだということで企画されたものだろうが、書評を読む限りではそうでもないようだ。論評者はどちらかというとクライン側の発表により理解を示しているようである。評者の、ラカン派の主張が理論的な立場に固執して「ラカン派に典型的であるが、誰一人として自分の臨床素材を詳細に論じることなく、ラカンがどう言ったかの講釈に終始している」という意見を見てもそれは明らかである。

 評者は、本書の対話の参加者で対話について意見を述べている人の言葉を引用している。それによるとこのディア ローグは「一面土に覆われた庭からやってきたばかりの女性」と「図書館であくせく本を読む男性」のあいだの対話だということで、評者はそれに賛意を示している。おわかりだろうが、前者はクライン派で 後者はラカン派の人間を表している。

 そして「本書はクライン派の方の基本的な考え方を知るのに役立つと思われ」、「ラカン派にはまとまった臨床素材の提示を求めたいところである」と述べ、 「本書には・・・基本的なところでフラストレーションがある。それは彼らの言っていること書いていることと、実際に行っていることの間にどれほどのギャッ プがあるのか分からないからだけではなくて、思いがけず感銘する一言が見いだせなかったからである。それもラカン派の実状の何かを反映しているのだろう」 と締めくくっている。

 どうやらラカン派以外の人たちは、ラカン派の分析家が実際の分析状況を細かく描写して説明してくれないことに、 かなり不満を持っているようだ。そこから、 ラカンは理論的には良いものもあるが実践には何も役立たない、などという意見も出てくるのだろう。

 しかしながらこのような意見は、精神分析というものが何であるか、精神分析における理論と実践の関係というものはどのようなものなのか についての理解不足から来ていると私には思える。

 こうしたラカン的分析に批判的な意見は、精神医学や臨床心理の分野から起こってくることが多い。それは、そもそも精神分析と他の治療分野には根本的な差異があるというところから来ている。どのような差異であろうか。

 ひとつの実践においては何を相手にするのかということを忘れては当然何もできない。たとえば、一般的な治療目的の手段において、それは病に陥った患者であり、それを治療するということが問題になるので、何を相手にしているのかは自明である。これに異言を唱える者はいないだろう。ところが精神分析の場合には状況がすこし違ってくる。精神分析は病に陥った人間を扱うものでもなく、困った人を助けるためにあるわけでもない。精神分析が関心を持つのは主体というも ので、主体を相手にするのだ。

 しかし、精神分析の相手にする主体というものは、人間でもなく、単なる自我でもなく、大変に捉えがたいもので、 それを考えるには非常に複雑な理論を展開する必要があり、大きな困難を伴う。フロイトの言う無意識が非常に把握するのが困難であるのと同じである。フロイトの無意識とは一方では主体のない過程であると言えるが、他方では主体だと言っても良いのだ。

 たとえば、現代哲学では数少ない主体の概念を追求している哲学者であるアラン・バディウーのように現代の最先端の哲学者でさえも、彼の主著書である『存在と出来事』のなかでもまだ主体にある種の実体を与えていたと反省している。主体を考えることは自由を考えることとよく似たもので、人間は物理的にはまったく決定されていると考えるのが合理的である一方で、やはりそれでも自由という概念を棄てることはできないという二律背反がありその双方を同時に考えること が思想の課題となるのだ。精神分析では、主体をまったく実体的なものを持たない、完全に希薄なものとして考えることが必要となる。何か実体的なものを与えてしまうとそれは物理法則に引っかかり矛盾に陥ってしまうからだ。これは、何か存在を持つものはデカルトの懐疑によって否定されることと同様なロジックである。そして、そのような主体を相手にしているということを見据えた上で理論を構築すると、必然的に思弁的な色合いの強い理論ができるのだ。たとえば、こうした実体を持たない主体と欲望の関係はどのようなものなのか、症状とはいったい何なのかという問いにたいする返答も決して単純なものにはなれないのだ。 だから、それをただの思弁だとして片づけることは精神分析の本質を捉えていないことになるだろう。

 もう一つ精神分析において他のものと違っていると考えなければならないものがある。理論と実践との関係である。

 一般的に言えば、理論は実践を行うにおいて実践に当てはめるためにあると考えられている。理論とは個々のものから抽象して取り出し、普遍的なものとして構築し、 より一般的な状況に当てはめるものだと考えるわけだ。ところがこの論理は精神分析には当てはまらない。なぜなら、精神分析はそれぞれのケースの持つ特異的な性質を持つものに興味を持ち、その特異性を捉えようとするからだ。普遍的な理論を持ってケースに当たるとその特異性を見失ってしまうおそれがある。だから、実践においてはすべての理論を忘れることが必要なのだ。

 それでは理論は何のためにあるのかという疑問が出てくるだろう。確かに実践では理論を忘れることが必要なのだが、逆に理論がなくなると精神分析は精神分析ではなくなることもまた間違いない。精神分析はフロイトの理論によって支えられているのだ。そして理論が変わるとまた実践も変わってくる。クラインの理論による実践はラカンのそれとは違うし、自我心理学をもとにする実践とラカンの理論をもとにするものでは明らかに違いがりある。

 セルジュ・ルクレールはこう言っている。

 精神分析家に課せられる二重の要請があることがわかる。つまり、一方では、彼にとってひとつの参照体系、無差別無前提に収集した素材の秩序化を可能にする理論を持つことが必要であるが、他方では、ひとつの理論体系を受け入れることは、好むと好まないとにかかわらず、ある種の要因の特権化へと必然的に導くということから、すべての参照体系を拒絶しなければならない。

 不可避な問いが立てられる。いかに精神分析理論を、理論の構成そのものによって理論の適用の基本的な可能性を消 し去ることのないものとして考えることができるであろうか。


 そもそもラカン理論は実践には役に立たないと考えている人は、そこから何か技法のようなものを取り出そうと考えているのではないだろうか。しかし精神分析には技法はない。技法は学ぶものではないのだ。ではどのように精神分析実践を学び行えばよいのかというと、そのためにこそ教育分析というものがあるということだ。教育分析を終えて、もしくはある程度進めることで分析家としてやっていけるのだ。そのとき実践の場に立つ分析家はそこではただ一人である。そこで出てくるすべての問題を一人で解決していかなければならない。それができないならば分析家としてやっていくべきではない。すべての事柄を自らの内密な判断 でやっていくのだ。そこにおいて練習のための訓練というのはない。すべて自分の分析で得られたことをもとにやっていかなければならないのだ。

 それでもやはり一人でやっていくと自分が何をやっているのか分からなくなってしまう恐れはおおいにある。そのた めにコントロール――一般的にはスーパーヴィジョン言われている――がある。コントロールとは、分析家がひとつのケースで問題にぶち当たってどうしようもないときに、解決法を教えてもらうために偉い先生に自分の分からないところを聞くためにあるのではけっしてない。それは、一人の分析家がもう一人の分析家にたいして自分のケースを話していく中で自らの ポジションを定めていく作業である。

 分析家としてやっていくためにはまた理論的な構築を行い、実践を適切な概念で把握することも必要だ。ラカンは概念は肉屋の包丁のようなものであると言っ て いた。それを使って、現実の絡み合いの中に適切な区切りを見つけて、ケースをうまく切り裁いてその構造を把握することだ。

 そしてまたそのためには症例呈示も有用だろう。ただ、ひとつのグループが実践的なものであるためには症例呈示をしなければならないという意見があるが、 それは間違いだ。そもそも症例呈示とは理論的活動なのだ。精神分析における実践とは分析実践のみであり、その方向を定めるもの、または軌道修正を行うも の、その構造を把握することはすべて理論的活動の範疇に入れるべきであろう。このことを一旦認めた上で、症例呈示のやり方を考えてみる必要があると思う。 日本でよく行われている症例呈示の方法は単にひとつの症例を漫然と紹介しているだけにすぎない場合が多いように思われる。精神分析にふさわしい症例呈示の 方法を探るために、たとえばフロイトの5つの症例とか、優れたラカニアンたちの行っているような症例呈示を少し研究して、症例呈示の在るべき姿を見いだす べきであろう。

 以前、精神分析学会である症例発表にたいして集団リンチのような批判を加えていた場面に遭遇したことがあったが、それは精神分析をなにか他のものと取り違えているとしか思えず、分析家の養成というものからはかけ離れたものであった。コントロールを受ける者、それを行う者、症例発表する者、それを聞いて批判 を加える者の間には何の上下関係が在ってもならず、すべて同じ土俵でなされるものでなければならない。指導者の立場に立つ者から意見を聞こうという態度 は、分析家としてすべての理想を括弧の中に入れるという立場を失わせてしまい、結局分析を暗示の方向に向かわせるおそれがあるのだ。

 そしてまた自分の実践をもとにして理論的考察を行い発表することも大切である。

 こういったこのとのすべてが精神分析を精神分析として実践するのに必要なのだ。抽象的だということの意味を取り違えてはならない。理論を洗練すればするほど具体的になるのだ。これはたとえば、物理学理論を見ても明らかだ。物理では理論が精緻になればなるほど物理学的現実をより具体的に把握できる。だから、 「一面土に覆われた庭からやってきたばかりの女性」と「図書館であくせく本を読む男性」 の間では必ずしも現場で泥まみれになっている状態が具体的だとは限らないのだ。

 ラカン理論を批判する人はいまだこのように高度に洗練された理論に遭遇し、真剣にそれに取り組んだことはないのではないだろうか。

 精神分析理論、ことにラカンの理論は難解であるがそれは必然的なものなのだ。その難解さの理由はラカンの次のような言葉に表れている。「治療の方針」第二章で、ラカンはクリスを批判してこう言っていた――「あなたの意図はまっすぐでも――なぜならあなたの判断も間違いなくまっすぐなのだから――物事のほうは、曲折している」。

 また同第第五章では、フロイトについてこう言っている。「フロイトのテクストを読み、彼の思考がわれわれに課するさまざまな紆余曲折にしたがうことにし よ う。彼の思考の紆余曲折については彼自身も科学的ディスクールの理想に照らして遺憾に思い、自分は自分の扱う対象によってそれを余儀なくされたと述べている」。

 つまり精神分析理論の紆余曲折はその対象の紆余曲折と同一なのだということである。

 これらの言葉が示しているのは、精神分析理論は必然的に単純な一本の線で引けるようなものではなく、複雑に曲が りくねった現実を反映して、自らも曲がりくねっているのだということで、そのような理論を把握するにはやはり多大な努力を必要とするということだ。それをただ難解な理論で臨床に役立たないと決めつけるのは知的な怠慢でしかない。

(旧サイトからの転載)