先日このHPでコラムの例として、数年前に誠信書房に頼まれて書いたものを出してみた。「20世紀が理解しな かったラカン」という題名を付けたのだが、 最初は「変わった人間ラカン」という題であった。だが、あまり編集の人の受けが良くないので現題にした。これをHPにupすると決めた何日か後に、エコール・ド・ラ・コーズの機関誌Lettre Mensuelleが送られて来たので、何の気なしに裏表紙を読んでいたら、「20世紀云々」という題名のことが思い出されたのでそれについて一言。

 Lettre Mensuelleの記事では、パリのCite de l'architecture(建築センター?)で展示会場が開設された際に、France CultureのMetopolitainsというラジオ番 組がオープニングを紹介し、そのとき番組を受け持っている建築家Francois Chaslinが「私たちがジャック・ラカンをやるのはこれが初めてだ」と言ったと書かれている。

 番組ではラカンのエクリの中の次の一 節が引用され た。
 ラカンは「建築と建物を区別するも の」を強調して 言う――「それは、建物提供しうる使用法を超えたところで建築を つくりあげる論理の力である。実際、バラックでさえなければ、いかなる建物も、建物をディスクールに近づけるこうした次元を無視することはできない」。

 この引用にたいして、記事を書いた人はこの引用は たいへん適切なものだと手放しでほめている。

 さて、私は上のコラムで20世紀はまだラカンを理 解できなかったと書いた。では、果たして私たちが今いる21世 紀はラカンを理解するであろうか。私たちは今ラカンが世界に受け入れられるか、それとも過去のものとして葬り去られるかの境目にいるように思える。一方で は、ラカンだけではなく精神分析そのものがamerican way of lifeによって潰されようとしている。そもそも精神分析は支配的ディスクールとうまくやっていくことは難しいのだ。

 しかしその一方、この建築家のような例もある。そもそも、建築家のような精神分析とは直接には関係のない人が、 一般の人には秘境のようなエクリの迷路から、このように見事な引用を取り出してくるということ自体、私たちには驚きである。日本では何人の精神分析に携わっている人がエクリから適切なラカンの引用を取り出せるだろうか。このような例をみせられるとフランスのラカンへの関心の広がりと理解の高さを改めて見 せつけられる思いだ。このような現象は単なる偶然かもしれないが、ひとつの徴候として、私たちにラカンは世界に受け入れられつつあるのだという希望を抱かせる。

(旧サイトからの転載)